1958年、東京生まれ。同志社大学卒業後、数多くのテレビ・ドキュメンタリーを演出する。初の劇場公開作品となった『延安の娘』(2002年)は、文化大革命に翻弄された父娘の再会を描き、ベルリン国際映画祭など世界30数カ国で絶賛され、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー映画賞、ワン・ワールド国際人権映画祭ヴァーツラフ・ハベル特別賞ほか多数受賞。2作目の『蟻の兵隊』(2005年)は中国残留日本兵の悲劇を描き、記録的なロングランヒットとなる。3作目の『先祖になる』(2012年)は、東日本大震災で息子を失った木こりの老人が家を再建するまでを追い、ベルリン国際映画祭エキュメニカル賞特別賞、香港国際映画祭ファイアーバード賞(グランプリ)、文化庁映画賞大賞、日本カトリック映画賞を受賞。2008年から2013年まで立教大学現代心理学部映像身体学科の特任教授を務め、卒業制作としてプロデュースした『ちづる』(2011年・赤崎正和監督)は全国規模の劇場公開を果たす。著書に『蟻の兵隊 日本兵2600人 山西省残留の真相』(2007年・新潮社)、『人間を撮る ドキュメンタリーがうまれる瞬間』(2008年・平凡社・日本エッセイスト・クラブ賞受賞)など。
これまで『延安の娘』『蟻の兵隊』『先祖になる』と3本の映画を発表してきましたが、映画を撮ることで私が追い求めてきたものは、いつも「人間の尊厳とは何か」という根源的な問いに対する答えでした。『ルンタ』でも、その思いは同じです。世界中に暴力がはびこる今、慈悲や利他の心に支えられたチベット人の非暴力の闘いを、世界の一人でも多くの人に知ってもらいたいと心から願っています。
私が初めてチベット人と出会ったのは、1984年、インド放浪中に訪れたラダックでした。そこで高山病にかかってしまった私は、彼らに命を助けられたのです。異国から来た見知らぬ旅人を、チベット人たちはまるで家族のように温かく迎えてくれました。
5年後、ダライ・ラマ法王がノーベル平和賞を受賞すると、法王へのインタビューを中心に亡命チベット人の暮らしを1時間のテレビドキュメンタリー(「TBS報道特集」)にまとめました。じつは、中原一博さんと出会ったのもこの番組の取材中です。当時、亡命政府の専属建築士だった中原さんは、政府庁舎の一室で図面を引きながら、仏教の勉強を熱心に続けていました。 それから4半世紀の時が経ち、チベットを取り巻く状況は悪化の一途を辿りました。その間、何度もチベットを舞台に映画をつくろうとしましたが、どうやってもうまくいきません。その第一の理由は、政治的なメッセージをもつ映画をつくれば、それに関わったチベット人たちが重い処罰を受けるからです。一時はシナリオを入れて劇映画にすることも考えましたが、それも撮影許可や資金の問題で断念せざるを得ませんでした。
そしてチベットでは焼身抗議が始まります。もう待ったなしの状態です。しかし、日本のメディアはまったくと言っていいほどこれを報じません。そんな時にふと思い出したのが中原さんのことでした。かつてのダライ・ラマの建築士は、今度はブロガーとなって連日のように焼身の模様を伝えています。ダラムサラの自室でひとりパソコンに向かう中原さんの悲しみを思うと、いたたまれない気持ちになりました。そして私は、中原さんと一緒に映画をつくろう、彼と一緒にチベットを旅しようと決めたのです。映画が完成した今、まさに“共犯者”であり続けてくれた中原さんには感謝の気持ちで一杯です。
しかしながら「ルンタ」の真の主役は今も増え続ける焼身者であり、非暴力の姿勢を貫くチベットの民に他なりません。中原さんはその語り部を見事に務めてくれました。
ダラムサラやチベット本土の旅で出会ったチベット人の皆さん。遺書の朗読などで惜しみない協力をしてくれた在日チベット人の皆さん。ご支援をいただいたすべての皆さんに、この場を借りて深く感謝いたします。
ルンタには幸運という意味もあるとか。焼身者がこれ以上増えることなく、チベットに真の平和が訪れることを心から願ってやみません。